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神様の一言一言はその性質の表れである

神様の次の言葉を読む度に私は不安になりました。「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。わたしの言葉を慎重に熟考するとよい。必ずそれらから多くの利益を得るであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より)私が不安を感じていたのは、神様の性質を理解することが、神様に関する人間の認識と、神様を愛し、神様に喜んでいただこうと求めることの両方にとって、とても大切だからです。しかし神様の御言葉を飲み食いするにあたって、私はいつも神様の性質が抽象的すぎると感じ、どのように認識すればいいのかわかりませんでした。その後、指導者との交わりを通じて、神様が何を好まれ何を嫌われるかはその御言葉から学ぶべきで、それによって神様の性質を理解できるようになるのだとわかりました。続いてしばらくそれを実践したところ、ある程度の成果を挙げることができました。しかしそれでもまだ「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている」という神様の言葉に困惑を感じ、いったいどう理解すればよいのかわかりませんでした。

 

証し

ある日、私は次の説教の言葉を読みました。「神様の性質には、神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いや考え、思考や知恵など、様々な側面が含まれます。神様の憐れみと配慮の感情、さらには人類の反抗や抵抗に対する怒りなど、ありとあらゆる人に対する神様の態度を含んでいるのです。神様の各文章には神様の思考、知恵、考えが含まれ、そのすべてに神様の御言葉の背景と源があり、どれも神様の人間への態度を自然と表し、一文たりとも根拠のないものはないので、各文に神様の性質が含まれているのはごく当然のことです。人間の口にする一言一句が人の性質を表すなら、神様の一言一句には神様の性質がはるかに多く含まれませんか。それは容易に理解できるものですが、それを見つけて知ることは人が想像するほど簡単ではありません。神様の言葉を読むにあたって、十分に理解しようとせず、努力を十分傾けず、十分な経験もないのであれば、神様の性質を簡単に知覚することはできず、ましてや理解するなど困難です。そのため、人は神様の御前で自分を静め、心をひたすら神様の御言葉に集中させ、祈りながら御言葉を読み、それを理解しようと努めることが必要なのです。そうすれば神様の御言葉の裏にある考え方の枠組みを見いだせるようになります」(兄弟の交わりより)。この言葉を読んですべての辻褄が合いました。神様の性質が数多くの要素を含んでいることに気づいたのです。そこには神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いと考え、思考と知恵、そしてあらゆる人に対する神様の態度などが含まれています。さらに、神様の各文章には御言葉の一語一語の背景と源があり、根拠のない文章は一つもなく、神様がなさるすべてのことと、神様がお語りになるすべての文章は、いのちにおける神様の存在そのものを残らず自然に表しています。一方、神様の性質に関する私の理解は、神様が何を好まれ何を嫌われるかだけに限られていました。このような理解はあまりに一方的であり、そのせいで神様の各文章から神様の性質を理解することができなかったのです。これ以外にも、神様の性質を神様の各文章から理解したければ、神様の御前で自分を静め、神様の御言葉を理解しようとすることにもっと努力を傾ける必要があるとも知りました。さらに、神様の御前で祈ってお導きを求め、神様がお語りになった御言葉の裏にある考え方の枠組みと、神様の御業の背景と源を理解することに集中する必要もあったのです。

 

私はこれらのことに気付かせてくれた神様の啓きと照らしに感謝し、その後はその側面の実践をして入ってゆくことに集中しました。そんなある日、神様の御言葉の一節を読みました。「この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。」(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている」より)この御言葉を慎重に理解しようとしていると、すごい宝物を発見したかのように感じました。神様の御言葉は、終わりの日にどのような方法で働きをなさるかについて、その時点における神様の考えの進展を示しています。考えが進展する中で、神様が最初に検討なさったのは、どの方法を用いればこの働きにおいて最も人間の益となるのか、人間を救うにあたって成果を挙げるにはどうするのが最善なのか、サタンに敗北を受け入れさせ、それによってサタンを征服し、深く傷つけられた人を完璧な救いへと導くにはどうすべきかということです。考えを巡らせる中で、神様は常に人間のことを気になさり、ご自分の益や安全は決して気になさいませんでした。神様は受肉によって多くの苦難を受けるであろうことをはっきり知りながらも、人類を救うとなると、それは考慮の対象ではありませんでした。その代わりに、神様は人類が必要としているものと、人類の堕落の現実に基づき、終わりの日の働きをなさるために、肉となる方法を選ばれました。大きな危険を冒して虎の住処の奥へ入り、赤い大きな竜によるひどい迫害と追及に苦しみ、様々な宗教や教派からの罵りと冒涜に耐え、さらには神様に従う私たちからの抵抗、反抗そして誤解にも耐えています。神様が心に負った傷や非難、そして神様が耐える屈辱は、まことに誰ひとり理解することができないものです。神様が表現し、明らかになさることはすべて、いのちにおける神様の存在そのものです。神様の人に対する無私の献身と、人のために払う代価なのです。神様が偉大にして無私でいらっしゃることは、その働きと各文章に自然と現れており、またそれらは神様の素晴らしい憐れみと無私の愛をも象徴しています。人類に対する神様の愛は単なる空虚な言葉ではなく、神がお払いになる実際の代価なのです。その時、神様は本当に偉大で愛しい方だとはっきり感じました。これらの神様の御言葉は以前に読んだことがありましたが、キリストがお語りになった御言葉の背景や、それらが明らかにしたすべてのことは理解しておらず、人類に対するキリストの愛も理解していませんでした。いま初めて、「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている」という神様の御言葉を真に理解できたのです。

 

それまで、私は心を静めたことも、神様の御言葉を理解しようと真剣に努めたこともなかったせいで、今日に至っても神様に対する多くの観念と誤解を抱いたまま、いまだに神様から遠ざかっているほど、神様を理解するたくさんの好機を失ってしまいました。いまようやく、神様の性質を理解したいのであれば、神様の各文章にある真理を真剣に突き止め、求めようとしなければならないことがわかりました。そうすることできっと大きな益を得られます。今日からは、神様の御言葉により多くの努力を集中させ、神様について何らかの認識をもつ人に早くなろうと思います。