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主イエスと全能神は同じ神ならば、救われるのにはイエスを信じるだけで十分ではないのか。

神の御言葉による答え:

人にとって、神の磔刑は神の受肉の働きを終結させ、全人類を罪から贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神は人類の罪を贖っただけである。人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さを変えていない。そのため神は「人となったわたしの肉体は死の苦しみを経験したが、それは受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架にくぎで打ちつけられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は人の姿となるという危険を再び冒す準備をした。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

…恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、よれにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。…だから、その段階が終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きがある。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い性質が捨てられることもないだろうし、人は罪の赦しにだけ執着するだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができる。神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践するよう求めるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。神の業は3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、2000年の間にそれ以上の変化が起こるのではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の業から遅れていることを意味する。これは人間の失敗である。神の新たな業の存在は否定出来ない。なぜなら、現在において、聖霊の元来の業のある者は、旧来の実践を遵守しているからである。聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。…

……

…各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。…多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

神の働きにはいつも新しい進展があるので、新しい働きもあり、当然すたれた古い働きも出てくる。この古い働きと新しい働きは矛盾するものではなく、補い合うもので、そのひとつひとつが過去から続いている。新しい働きがあるから、もちろん、古い働きは取り除かれなければならない。…神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規則を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンが打ち負かされることもないだろう。よって、彼の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない多くの新しい働きと言葉を受け入れることができようか。…神の意図は、自身の働きを、古いものや死んだものではなく、常に新しく生き生きとしたものとし、人の拠りどころとなるものが時代や期間に合わせて変化し、永遠に続くものであったり不変のものであったりしないことである。彼は人を生かし新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが分からないか。あなたは心を閉ざしているので、神について持っている観念を手放すことができない。神の働きが理不尽だからでも、人間の願望と合致していないからでもなく、無論神がいつも自分の義務に怠慢だからなどでもない。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知る者だけが、神に仕えられる」より