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人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く(2)

人類が地上で真の人間生活を達成し、サタンの全勢力が縛られると、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は現在ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など……。それらは厄介で、本当に苦痛である。地上の人間生活はとてもみじめである。一旦征服されると、人の心と思いは変わるだろう。人は神を畏敬する心と、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが打ち負かされ、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉の関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的な関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、その人がまだサタンの影響から解放されていない証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持ち、家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上良いことはないだろうし、これなら人は苦しみの半分から解放されるだろう。地上で正常な人間の生活をすると、人は天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになるだろう。これは最後の約束、人に授けられる最後の約束である。現在、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたは、人間がそのような体験をすることを無意味だと思うのか。刑罰の働きや裁きの働きが何の理由もなく行われるだろうか。以前、人を罰し、裁くことは人を底なしの穴に落とすことだと言われてきた。それはつまり、人の運命や前途を奪い取ることを意味する。これはただ一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人を故意に底なしの穴に落しておいて、人間に見切りをつけるのではない。むしろ、人の中にある反抗心を取り扱い、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖なる者のようになるためである。もしこのことがなされるなら、すべてのことが成就されるだろう。実際、人の中にある取り扱われるべきこれらのものが取り扱われ、人が響きわたるような証しをするなら、サタンは打ち負かされ、たとえ人の中に生来あるものがまだ完全に清められず、少しは残っていても、一旦サタンが敗北すると、もはやサタンが困難をもたらすことはなく、その時こそ人は完全に清められるであろう。人はそのような生活は体験したことがないが、サタンが打ち負かされると、すべてに決着がつき、人の中にある些細なことはすべて解決される。主な問題が解決されると、他の全ての問題も解決する。神が今回地上で受肉している期間、彼が人の間で自ら働きをなす時、彼がなす全てのことは、サタンを打ち負かすためである。そして、彼は人を征服し、あなたがたを完全にすることによって、サタンを敗北させるのである。あなたがたが響きわたるような証しをするとき、これもまた、サタンの敗北のしるしとなるであろう。人は、サタンを打ち負かすために、最初に征服され、最終的に完全にされるのだ。けれども、実質的に、これはサタンの敗北であると同時に、全人類がこのむなしい苦悩の海から救われることでもある。この働きが全宇宙で実行されるのか、中国で実行されるのかに関わらず、そのすべてはサタンを打ち負かすためであり、人が安息の地に入ることができるよう全人類に救いをもたらすためである。受肉した神、即ちこの普通の肉体は、正にサタンを打ち負かすためである。肉なる神の働きは、神を愛する天の下にいる全ての人たちに救いをもたらすために用いられ、それは全人類を征服するためであり、さらには、サタンを打ち負かすためである。神の経営(救い)の全ての働きの中核は、全人類に救いをもたらすためのサタンの敗北と切り離せない。この働きの多くにおいて、あなたがたに証しをするように常に言うのはなぜだろうか。そしてその証しは誰に向けられるのか。それはサタンに向けられているのではないか。この証しは神のためになされ、神の働きがその効果を達成したことを証しするためのものである。証しすることはサタンを打ち負かす働きと関係している。もしサタンとの戦いがなかったら、人は証しをするよう要求されないだろう。サタンは敗北しなければならないので、神は人を救うと同時に、サタンの前で人が神に証しすることを要求する。人を救い、サタンと戦うために神はそれを用いるのだ。したがって、人は救いの対象であり、またサタンを打ち負かすための道具でもある。そのため、人は神の経営(救い)全体の働きの核心に置かれており、サタンは滅ぼす対象、つまり敵にしかすぎない。あなたは自分は何もしていないと感じるかもしれないが、あなたの性質が変わることで、証しとなっている。そしてこの証しは人に対してではなく、サタンに向けられている。人はそのような証しを享受するに適していない。神によってなされた働きが、どうして人に理解できようか。神の戦いの対象はサタンであり、一方、人は救いの対象に過ぎない。人は堕落したサタンの性質を持っているので、この働きを理解することはできない。これはサタンによる堕落だからである。それは人の中に生まれつきあるのではないが、サタンによって仕向けられる。現在、神の主な働きはサタンを打ち負かすことである。つまり、人を完全に征服し、その結果、人がサタンの前で、神に最後の証しをするためである。このようにして、全てのことが成就されるだろう。多くの場合、あなたの肉眼では、何もなされなかったように見えるが、実際、働きはすでに完成されているのである。人は完成したすべての働きが目に見えることを要求するが、それがあなたに見えなくても、わたしは働きを完成させたのである。というのは、サタンが服従したからであり、それは、サタンが完全に打ち負かされ、神の知恵、力、権威のすべてがサタンに勝利したという意味である。これこそが立てられるべき証しであって、人に明白な表現はなく肉眼には見えなくても、サタンはすでに打ち負かされたのである。この働きのすべてがサタンに向けられており、サタンとの戦いの故に実行される。したがって、人には成功したように見えない多くの事があるが、神の目にはずいぶん前に成功しているのである。これは神のすべての働きの秘められた真理の一つである。

 

一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、人が完全に征服されると、人はこのすべての働きが救いのためであり、この救いの手段はサタンの手から取り戻すということであると理解するだろう。神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと想像の中で考えているだろう。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なく曖昧で、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いを通してである、とわたしがこうして言うので、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

 

神は被造物に対して悪意はなく、サタンを打ち負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを打ち負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを打ち負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、また、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で支配され、みなサタンの領域で生きているので、サタンと戦ってそれを断ち切ることがなければ、サタンはその人たちへの掌握をゆるめないだろうし、彼らが神のものとされることもないだろう。もし彼らが神のものとされなかったら、それはサタンが打ち負かされておらず、征服されていないことの証明となるだろう。したがって、神の六千年の経営(救いの)計画の最初の段階で、神は律法の働きをなし、第二段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の業をなし、第三段階では、人類征服の働きをなした。このすべての働きは、サタンが人類を堕落させた度合いに応じており、それはすべてサタンを打ち負かすためであり、サタンを打ち負かすためではない段階は一つもない。神の経営(救い)の六千年の働きの実質は、大きな赤い竜に対する戦いであり、人類を経営する(救う)働きもまたサタンを打ち負かす働き、サタンと戦いを交える働きである。神は六千年も戦い、このようにして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされるとき、人は完全に自由になる。これこそ現在の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に現在の働きの方向である。つまり、人を完全に解放し自由にすることである。その結果、人はどんな規則にも支配されず、あらゆる束縛や抑制にも制限されなくなる。この働きのすべてはあなたがたの霊的背丈とあなたがたの必要に応じてなされる。つまりそれは、あなたがたが達成できるものは何であれ与えられるという意味である。それは、「アヒルを追いやって木に止まらせる」というような、あなたがたに能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きは、あなたがたの実際の必要に応じて実行されるのである。それぞれの段階の働きは、人の実際の必要や人への要求とに応じてなされ、それはサタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と彼の創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンによる妨害と堕落によって何も見えなくなり、何も触ることができなくなった。人は犠牲者であり、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、自ら彼らを導くことができる。唯一これのみが、人が地上で送るべき生活である。したがって、神の主な働きはサタンを打ち負かすことであり、サタンが敗北すると、すべてが解決される。現在、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけてあれこれ指摘するために来たのではなく、単に自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでもなく、また、自らが語る奥義と自らが開いた七つの封印に関して聞かせるためでもない。むしろ、神はサタンを打ち負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉となって自ら人の所に来た。そしてこれこそが彼の受肉の意義である。もしそれがサタンを打ち負かすためでなかったなら、彼は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをなすため、人に自らを現すため、また、人が神を見上げるようになるために地上に来た。これは些細なことだろうか。これは実に驚くべきことである。人の想像とは違い、神が来たのは、人が彼を見上げるようになり、神は実在し、漠然として空しい存在ではなく、いと高き方であるが謙っていることを人が理解するためである。これはそれほど単純なことだろうか。神が肉の姿をとってサタンと戦い、自ら人を牧さなければならないのは、正確に言えば、サタンが人の肉体を堕落させたからであり、人間こそが神の救おうとするものだからである。神の働きに有益なのはこれのみである。神の二度の受肉はサタンを打ち負かすために存在し、また、より効果的に人を救うために存在した。なぜなら、サタンと戦いを交える方は、それが神の霊であれ、神の受肉であれ、神をおいては他にいないからである。要するに、サタンと戦いを交える者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずもない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無力である。そのように、もし神が人のいのちに働くことと、人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉となり、つまり、自ら肉の姿をとり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために人々の間に来なければならない。もしそうでなく、この働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を達成することはなく、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人々の間で自らサタンに戦いを挑むとき初めて、人に救いの機会があるのだ。さらに、その時初めてサタンは辱められ、利用する機会も、企てる計画もまったくないままの状態になるだろう。受肉の神によってなされる働きを、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉なる人間によって成し遂げることはなおさら不可能である。というのは、神がなす働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、惨めにも混乱してただ逃げるだけで、彼らには人間の堕落した性質を変えることはまったくできないであろう。人には十字架から人間を救ったり、反抗的な人類すべてを征服したりすることは不可能であり、原則に従って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることしかできないだろう。それならなぜ思い煩う必要があるのか。人間を獲得することも、ましてサタンを打ち負かすこともできない働きに何の意味があるのか。したがって、サタンとの戦いは神自らによってのみ遂行されるのであって、人にはまったく不可能である。人の本分は服従して従うことである。というのは、人は新しい時代を切り開く働きも、サタンと戦う働きを遂行することもできないからである。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができだけで、サタンは、それを通して打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。それゆえ、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神はその時代全体を導き、全人類のために新しい道を切り開く。それぞれの新しい時代の幕開けは、サタンとの戦いの新しい始まりであり、それを通して、人は神自らが導くより新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人は万物の主人だが、神のものとされた人たちはサタンとのすべての戦いの実となるであろう。サタンはすべての物を堕落させる者であり、すべての戦いの終わりには敗北者となり、また、これらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンのうち、サタンだけが忌み嫌われ、拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神によって取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけが万物に礼拝されるべきである。一方、サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従うようになった人たちは、神の約束を受け、神のために邪悪な者たちを裁く者となるだろう。神は必ず勝利し、サタンは必ず敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは勝利者に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これはそれぞれの者を種類によって分類することであり、それは神のすべての働きの最終結果であり、神のすべての働きの目的でもあり、それは決して変わることがない。神の経営(救いの)計画の主な働きの核心とは、人の救いに焦点を置くことである。そして、神は主にこの核心と、この働きのために、またサタンを打ち負かすために、肉となるのである。神が初めて肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働き、すなわち人類の贖いの働きを完了させるために、自ら肉となり、自ら十字架に釘付けにされた。同じように、この段階の働きも、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神を見ることができるようにするために肉となった神自らによってなされるのだ。もちろん、神がその働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、彼が自らその働きを遂行する主な理由は、サタンを打ち負かすためであり、全人類を征服するためであり、また、これらの人たちを自らのものとするためである。したがって、神の受肉による働きは本当に重要である。もし彼の目的が、神はへりくだっていて隠れた存在であり、神が実在することを人に示すことだけで、もしこの働きをするだけのことであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神が肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠れた存在であること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接現すことができただろう。しかし、そのようなことは人類を経営する(救う)働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできはしない。もしサタンを打ち負かすことにおいて、聖霊が霊と戦うだけなら、そのような働きの実践的価値はさらに低いだろう。それなら、人を神のものとすることは不可能となり、人の運命と前途を台無しにしてしまうだろう。そのように、現在の神の働きには深遠な意味がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人に多少の感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識についてしか語ることができないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていない証拠である。

 

神の経営(救いの)計画の働きの全ては神自身によって直接行われた。第一段階、即ち世界創造のあとの律法の時代の働きは、神自身によって直接行われた。神はモーセをもちいて律法を公布した。全人類を贖うという第二段階もまた受肉した神によって直接行われた。肉となった神以外には、それを行なう資格のある者は誰もいない。第三段階は言うまでもない――神のすべての働きを終わらせるためには、なおさら神自身が働くことが必要となる。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。もし彼がこの働きを自ら行わないなら、彼の身分を人によって表すことはできないし、彼の働きが人によってなされることもないだろう。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上で正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神のすべての経営(救いの)計画とすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人に見られるため、また人を嬉しがらせるためであるとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、また何の意味もないだろう。人の認識はあまりにも浅い。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところ無く完全に行われるのである。人が神に代わってそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がそれをしたとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、それはすべての人間の罪を贖い、人間が清められること、その罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神自らによって人の中でなされる。もし、この段階の間、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者を見つけて、その人が神に代わることもできよう。もし預言のみが語られるなら、人は神の代役を務めることができよう。しかし、もし神自身の働きを人が自らなし、人が人間のいのちに働くなら、この働きをなすのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをなすために自ら肉とならなければならない。ことばの時代に、もし預言しか語られないのであれば、この働きをするために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が直接それをする必要はないだろう。この段階においてなされる働きは、預言を語ることだけではなく、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きの方が更に重要なので、この働きは人間には不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、働きをなした。それは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人間の性質を直接変える働きではなく、人間の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって自らを人に現すことはなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第一段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは現在に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の実例は、受肉の神が十字架に釘付けされた事である。受肉の神が十字架に付けられたことによってサタンは打ち負かされたが、それはこの戦いでの最初の成功段階であった。受肉の神が人のいのちに直接働き始めるときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりであり、これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きである。初めにヤーウェによってなされた働きの段階とは、地上での人間生活の指導に過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、まだいかなる戦いも、いかなる大きな働きも関与していなかったが、それはこれから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第二段階には、人間の古い性質を変えることが含まれたが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とした。そして、もし彼が肉とならなかったなら、他の誰ひとりとしてこの段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人間が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンに立ち向かっても、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉の神でなければならなかった。なぜなら、受肉の神の本質は依然として神性であり、神がまとう肉は人間の命を持っており、これこそが造り主の現れであるからだ。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。したがって、神は肉の形をとって、サタンの完全服従をもたらす働きをなした。終わりの日の働きの段階で、もし人がこの働きをなし、言葉を直接語らなければならないとしたら、人はそれらを語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人間を征服することは不可能であろう。神は、肉の形をとって、サタンを打ち負かして完全服従させるために来る。彼が完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営(救い)において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは、人間によってなされることが可能だが、もしそれが、神自らがなすべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がこれをなすことは不可能である。働きの第一段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いとなり、神自らが肉の中に入り、肉となり、この働きを行った。サタンとの戦いが必要とされることは、何であれ神の受肉も必要とする。つまりそれは、この戦いは人間には行うことができないということである。もし人間が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。サタンの支配下にある人間に、どうしてサタンと戦う力を持つことができようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人がなすなら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそうしていたら、人はとうの昔に滅びていたのではなかろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入っていたのではなかろうか。このように、人は神に代わってその働きをなすことはできない。すなわち、人は神の本質を持っておらず、もしあなたがサタンと戦いを交えたなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人にはある程度の働きしかできない。人は幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人間がサタンと戦うことなどできようか。サタンは、あなたが戦い始めるやさきに、すでにあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、このことに基づいて人間が神に従い服従するとき初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりすることは不可能である。人の知能と知恵では、サタンの計略を阻止することなど不可能である。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。

 

進んで完全にされたいと思う者たちは皆、完全にされる機会がある。だから皆落ち着いていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入る意欲がないなら、それはあなた自身の問題である。進んで完全にされようとし、神に忠誠を尽くす者たち、服従する者たち、そして自分の役割を忠実に果たす者たち、――そのような人たちは皆、完全にされることが可能である。現在、自分の本分を忠実に尽くさない者たち、神に忠誠を尽くさない者たち、神に服従しない者たち、とりわけ、聖霊の啓示と照らしを受けたが、それを実践しなかった者たち、――そのような人たちはみな完全にされることが不可能である。神に進んで忠誠を尽くし、従う者は、たとえ多少無知であっても、皆完全にされることが可能である。進んで追求する者たちは皆完全にされることが可能である。この点で心配する必要はまったくない。あなたが進んでこの方向を追求している限り、あなたが完全にされることは可能である。わたしは、あなたがたの中の誰をも、見捨てたり、排除したりすることを願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身に破滅をもたらしているだけである。あなたを排除するのは、わたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分の本分を尽くすことも、忠誠を尽くすこともなく、真理を追求せず、いつも自分の好き勝手なことをし、無謀にふるまい、自分の名声と富のために争い、異性に対して不道徳な接し方をするなら、あなたは自分の罪の結果を自分で負わなければならない。誰の同情にも値しない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることであり、少なくとも、あなたがたが征服され、その結果、この段階の働きが成功をもって完了することである。神の願いは、一人ひとりが完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩が遅いとか、力量が乏しいとか、わたしが言おうと、気にすることはない――これはすべて事実である。わたしがこう言っても、それは、わたしがあなたがたを見捨てようとしており、あなたがたに望みを失ってしまった証拠ではなく、ましてや、あなたがたを救う意欲が無い証拠などではない。現在、わたしはあなたがたの救いのための働きをなすために来ており、すなわちそれは、わたしがなす働きは、救いの働きの続きだということだ。完全にされる機会は各人に与えられている。あなたが進んで受け入れるなら、また、あなたが追求するなら、最後には、その効果を達成でき、あなたがたの誰一人として見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその乏しい力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が大きいなら、わたしはその大きな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたに人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の管理であれ、その他の一般的なことに対応することであれ、あなたが果たす役割に応じて、わたしはあなたを完全にするであろう。忠誠を尽くすこと、最後の最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことであり、この三つよりすぐれた実践はない。最終的に、人はこれら三つの事を達成することを要求されている。そして、もしそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかし何にもまして、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み、上を目指さなければならない。すべての人に完全にされる機会があり、完全にされることは可能である、とわたしは既に言った。これは有効だが、もしあなたが、自分の追求において向上しようとしないなら、また、もしこれら三つの必要条件を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと啓きを得て、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これは、あなたがた一人ひとりが尽くすべき本分であるからだ。あなたがたがみな本分を尽くし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、響きわたるような証しを持つだろう。証しを持っている者たちは皆サタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちである。そして彼らこそ、素晴らしい終着点で生き続ける人たちである。